「寿司」正しくは「なれ寿司」は、保存食として東南アジアから中国へ、そして我が国へと伝えられたものです。寿司は、東南アジアの山間民族の間で行われていた魚の貯蔵方法で、初期の材料の多くは川ざかなにかぎられていたそうです。
我が国の寿司に関する最も古い文献は、1200年前のものであり、その中に「雑鮓」、「鮎貝鮓」といった文字が出ているといわれ


   鮓(さ)は酢、塩で魚を塩梅し、鮨(し)は麹、塩で魚を醤(ひしお)にしたのです

 一般に寿司が普及し初めたのは、江戸時代中期のころであり、それは、現在の琵琶湖周辺の特産となっている、「鮒すし」のようなものでした。従って寿司は保存食としての色彩の濃いものでした。その後製造日数が短縮され、5〜6日から一夜でできる「一夜すし」へと変化してゆきました。これは、従来の冷やした御飯のかわりに熱い御飯を使って、醗酵速度を高めたものでした。

延宝年間(1673〜1680)には、幕府の医師「松本 善甫」が現在のような「即席寿司」を考案し、急速にお寿司が普及するようになりました。現在も作られている「大阪寿司」風の箱寿司であったと伝えられています。
 天明7年に発行された本には、天明の頃のり巻、ゆば巻、笹巻などが流行したことが記載されています。
 

「寿司売り」と称して頭に手ぬぐいを被り、身綺麗な着付けで白木の箱を肩に担いで「寿司やー、こはだのうす寿司ぃー」と美声で売り歩いていたそうです。

このころの店の多くは、屋台形式で片流れの屋根を付け、前と両側に油障子を立て、その中でツケ台ににぎり寿司を置いて、立ち食い形式だったそうです。

現在でもにぎり寿司を、お好みで召し上がるお客様を「立ち」のお客様と呼ぶのは、このためです。

年代が進むに連れ、寿司店の店構えも現在のような体裁になってきました

現在のような「にぎり寿司」が現われたは、文政6年(1823)江戸、両国の与兵衛寿司の「華屋 与兵衛」の考案とされています